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架空自転車旅行社「ひとつな」

「ひとつな」の中の人であり、同人サークル「沙杏院project.」の中の人でもある石谷玲(いしや れい)が独り言をつぶやいているブログです。

東日本大震災、あの時の私。

丁度一年前、私は府中のオフィスでデスクワークをしていました。あの時間、今までになく大きな地震が来たなあと言う印象しかありませんでした。何故そこまで暢気だったかというと、オフィスには地震による被害が何も無かったためでした。大きな地震が起こったのに避難訓練の実践は何も為されませんでした。避難しなくて良いの?ねえ?と言った感じで互いに顔を見合わせていました。それは避難を促す放送も流れてこなかった為でもありました。その後、避難放送の代わりに流れてきた放送は、鉄道が停止しているのでそれを想定して帰れる人から帰ってくれと言うアナウンスでした。それでも私は暢気に構えて、定時まで仕事を続けました。なお、この時直属上司および上位上司、同じグループの同僚は不在でした。その時に在籍していた私の部署は客先や営業、SEの拠点に行って仕事をすることが主だったからで、その時間は私を除くグループのメンバーは全員客先に外出していて不在でした。私が同行していないのは、後述する腰痛の患いがあったためで、逆に言うとこの上司達の配慮があったために当日は家に帰り着くことができたのでした。客先は東京丸の内。私が住んでいるのは立川。その距離を歩いて帰るのは今考えても無理です。
 
定時後、最寄り駅に着くと、放送通り鉄道は動いてませんでした。それでも電事故のようにすぐに復旧するだろうと思って、駅のNEWDAYSで飲み物とスナックを幾つか買って駅に待機していました。それは私が腰に爆弾を抱えていて、徒歩で帰宅というのが困難だったからでした。タクシーも考えましたが、タクシーは駅のロータリーには一台もありません。バスもありません。なので電車で帰ることしか考えていなかったのでした。その後、駅の構内にこんなアナウンスが流れました。
 
地震の影響で駅舎が崩壊する可能性がありますからなるべく駅舎から出てください。
 
3月とは言えまだまだ寒い日でした。鉄道が復旧するまで外で待機するなんて考えたくもない。私を含め、駅舎から出て待機する人は殆ど居なかったように思います。この時の私たちの認識なんて、そんなモンだったのです。この時は地震によって何が引き起こされたのか、知らないのです。ただの地震による運行停止としか思っていないのです。結果その通りであったとは言え、駅舎が崩壊するなんて大げさな、なんて思っていたのです。
 
一時間ほど待っても復旧する様子は無かったので、流石に業を煮やして徒歩で帰る決意をしました。ここ数年、不測の事態になった場合に備えて会社から徒歩で帰る訓練とかをやっているニュースをよく見ていました。緊急帰宅マップみたいなのを売ってるのも見かけてました。東京マグニチュード8.0なんてアニメもありました。こういうこと(徒歩で帰宅すること)はあり得ることだろう。そう思って歩き始めたのでした。実は会社から(厳密には会社敷地内に併設されている、かつて住んでいた会社寮から)今の家までは自転車で何度も往復していたので、どのルートを通れば帰れると言うのは分かっていました。自転車で最短ルートで30〜40分程度。2時間くらいかければ帰れるかなあなんて考えていました。
 
甲州街道に出てみると同じことを考えて歩いている人が本当に沢山いました。まるで「歩け歩け大会」だなあ。この時もそんな、イベント感覚でしかありませんでした。車道に目をやると、車の大渋滞。なかなか動けません。タクシーもバスも来ないのはこのためでした。「こりゃダメだ(笑)」そんなことを考えながら、南武線谷保駅に辿り着きました。本来自転車で通る時に使っている踏切はずーっと遮断機が下りてカンカン鳴っています。仕方ないので谷保駅の駅舎を通って北口に抜けます。すると、大行列ができているのを目の当たりにしました。それは、タクシーを待つ列でした。長い列がロータリーを覆っていました。私は、さっきの大渋滞の像が焼き付いているのでタクシーは来ないと思い、そのまま歩みを続けようと考えていました。そんなとき、一台のワゴン車がロータリーに入ってきました。そして、運転手はワゴン車を降りると、我々に立川駅まで乗せていくと言い始めたのです。渡りに舟。立川まで行ければ凄く楽になる。やはり助け合いの精神はあったのだ。そう思って彼の元に歩み寄ろうとしていた時、彼はこう続けたのです。一人千円と。ワゴン車はタクシーでもない自家用車でした。別に千円出す余裕がなかった訳でもありませんでしたし、谷保駅から立川駅にタクシーで向かっても千円以上するでしょう。ですが、急速に冷めていき、乗らずに歩いて帰ることを選択しました。やはり、助け合いなんて無かったんだな、と。こういう人にすらすがらないと身動きできない人に譲ろうと考えたのでした。とにかく、この出会いは残念で失望でしかありませんでした。そして、谷保駅に滞在している際に、2ちゃんねるだったかまちBBSだったかの情報で、今日は終日JRは動かないことを知らされたのでした。もう歩くしかなくなったのです(この時はそう思ってました)。
 
谷保駅からまっすぐ北上すると国立駅に着きます。谷保駅の次の目的地はそこでした。そこに向けて歩いている時、後ろから大きなエンジン音が聞こえました。バスが走っている!これは甲州街道の状況を見ていた私にとっては驚きでした。そう言えば今歩いているこの道は車がそれほど通っている訳じゃない。だからさっきのワゴン車は谷保駅に来れた訳で、国立駅南口が終点であるこのバスも走っていたのでした。バス停に急ぎ、このバスを捕まえることができた私はそのままギュウギュウ詰めのバスに乗り込みました。満員電車や寿司詰めのバスは腰痛のため避けてましたが、どうせバスならば10分もかからずに国立に着くはず、我慢できない時間じゃないと踏んで乗車しました。
 
国立駅前は凄い人の群れでした。何だこりゃ。南口のロータリーでは警察官が拡声器で「帰宅困難者は開放している公民館に行ってください」と叫んでいます。国立駅は柵で立ち入りを禁止されていました。通常は運行情報を知らせてくれる液晶モニタにはNHKのニュースが流されていました。そして、衝撃的な映像を見てしまったのです。東北では地震により津波が発生し、家を押し流しているその映像でした。そんな馬鹿な。そんなことがこの地震で起きてしまったのか。ことの重大性を初めてこの時知ったのでした。携帯電話を見ると父親から電話が入っていました。急いで安否を知らせようと電話をかけようとしますが繋がりません。というよりこちらからのコールができないのです。どうしよう。取り敢えず繋がらないものは仕方ないので家に急ごうと考えました。国立駅脇の高架を抜けて北口に出ます。すると、またもやバスが見えました。しかもそのバスはうちの近くまで行くバスでした。半信半疑のまま乗ってみると、南口と打って変わって人もあまりいなくて空いているのです。あっさり座ることができ、そのバスも満員になることはありませんでした。バスの中で、twitterは普通に繋がることがわかり、知り合いに自分の安否をダイレクトメッセージにて知らせました。
 
こうして、私は幸運にもバスを乗り継ぐことができ、たいした負担もなく帰宅することができたのでした。家の被害は本棚の上に置いていた梅酒が落ちて割れてしまったことくらい。私個人に関する震災の直接的な被害はこれだけでした。
 
さっき見た津波の映像が気になってTVを付けると、どこのチャンネルもそのことをCM無しで報道し続けていました。特に仙台の様子、とりわけ仙台駅が壊滅しているのはショックでした。私が仕事で仙台に赴いた時に利用した仙台駅。コンコースでずんだ餅を買ったあの仙台駅がこうなってしまった。自分が数年前に利用しその姿を記憶に残していた仙台駅の変わり果てた姿に呆然としてしまったのです。自分の周りはたったこれだけの被害。なのに仙台ではこんな状態になってしまい、そしてTVでは死者数のカウントが時間を追うごとに増えていく。正直言ってこのギャップが受け入れられなかった。CMはなくなりACの穴埋め映像ばかりが流され、ぽぽぽぽーんしている。しょっちゅう緊急地震速報が流され、余震に襲われる。今まで体験したことのない異様な雰囲気に、はっきり言って不安ばかりが募っていきました。遂に東南地震が起きて首都圏は壊滅するんだろうか。
 
あれから日本はすっかり変わってしまいました。節電が叫ばれるようになり、ほんの少し前まで、馬鹿な首相のせいで勝手に決められてしまったCO2削減のための決定打となるはずだった原子力は人類の敵であるかのように扱われることになりました。牛乳や納豆、乾電池は一時買えなくなりました。TSUNAMIは放送禁止であるかのような処置になりました。関東大震災阪神大震災、そして直前に起こったNZ大地震を受けて日本は、私はどうすべきだったのでしょうか。そしてこれからどうするべきなのでしょうか。未だに悩む日々が続きます。1年経っても。